T&B9話の夜の記憶【兎虎】

 

 これはほんの一時的な気の迷いだ。
自分のせいで怪我を負わせてしまった罪悪感。
上半身を大きく覆う包帯姿を見ることが、痛みを堪える声を聞くことが無くなれば、この気持ちも消えるはずだ。

 しかし、僕はなぜかあの人を自分から追っている。
その姿を、声を、無意識にアンテナを張り巡らして探している。
自分を呼ぶ声を待ち焦がれているなんて重症だ。

でも、この状況を打破する術を僕は知らない。
そのそも、この気持ちに何という名前を付ければいいのか、僕にはわからないのだから。

 22時を回った頃、リビングの中央に据えられた椅子には、客人が座っていた。
自分の定位置であるそこで他人が寛ぐなど考えたこともなかったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

シャワーを済ませたばかりの彼の黒髪はまだ濡れていたが、そんなことはお構いなしのようだ。
先程まで使っていたフルートグラスに2本目のボトルを注ごうとしている。


「そんなに飲んだら、傷が痛みますよ。」

「大丈夫だって。酒を飲む体力ならバッチリあるしな。」


機嫌が良さそうなのは、アルコールが回ってきているせいだろう。
入浴前に見せていた寂しげな父親の顔はもうそこにはなかった。


「でしたら、まず先に包帯を巻き直したらどうですか?それでも一応、怪我人なんですから。」


救急用具の入った箱を片手に、椅子へと近づいていく。
指輪の付いた手から奪ったボトルをテーブルに置くと、処置に必要なものを準備し始めた。


「本当にいいって。もう、ほとんど治ってきてるしな。」

「おじさんの回復力なんて信用していません。
僕のせいで負った怪我なんですから、これくらいの処置はさせてください。」


 入浴前から申し出を固辞し続けていた彼を、皮肉交じりに説き伏せる。

髪から滴る水を吸ったタオルを剥ぐと、患部が現れた。
治りかけではあるが、見るからに痛々しい。
だが、眉を潜めた僕に、傷の主は目を細めて微笑んだ。


「まぁ、勲章みたいなもんだな。他にもっとすごいのだってあるだろ?」


よく見れば、体のあちこちに無数の傷痕がある。
薄暗い部屋と濃いめの肌色だということを差し引いても、かなりの数だ。
中には大怪我だったことを伺わせるようなものもあったが、鍛えられた体にはそれが装飾品の一種のようにも見受けられた。

書類や関係者から聞く話など比にはならない。
これだけの傷を負ってなおヒーローを続けてきたという事実に、目の前の男の信念を感じた。
今がどうであれ、自分にはないキャリアがこの体にはしっかりと刻まれている。
それはまさしく、世界にたった一つの立派な作品だった。

目線を上げれば、一番新しい傷が右肩を彩っている。
周囲の肌色とは違い赤く浮き上がったそれはやはり痛々しかったが、先程とは違って美しくも感じられた。

ゆっくりと、顔が引き寄せられていく。唇が触れると、堪える声が鼓膜を震わせた。


「……っ!」


 吐息の中に潜むはっきりと形を成さない声が、頭の中に甘く響く。
体は震えているが、痛みを訴えている訳ではない。
そのままそっと舌を這わせると、皮膚とは違った感触を覚えた。
表面は普段通りに形作ろうと見せかけているのに、内側は回復しきっておらず頼りない。
なぜか、グラス越しに娘さんの話をしていた彼の顔が浮かんだ。

 今はどんな表情をしているのだろう。
膨らんでいく欲求を抑えきれずに更に視線を上げると、間近に自分へと据えられた瞳があった。
潤んだアンバーの美しさに目が離せなくなる。
この高層フロアから見える月よりもはるかに綺麗だった。

その目に宿る感情を読み取りたい。
自分をどんな風に捕えているのか知りたい。
見上げるように、覗き込むにように近づいていく。

頭だけでなく視界までもがただ一人の人間でいっぱいになる。






まさにその瞬間だった。





「バニー…?」


 控え目に響いた声に、思考が蘇る。
自分を呼ぶ声と共に出された吐息を唇に感じ、飛び上がるように体を離した。


「あ…っ!」


 寝室の子供たちが目覚めてしまうかと思ったが、気にかけられたのはほんの一瞬だけだった。
目の前の男にも聞こえてしまうのではないかという程に、心臓が早鐘を打っている。

 だが彼は、そんな僕を目を見開いて見ているだけだった。


「バニーちゃん、大丈夫か?」


 僕を気遣う問いかけが、自分の行動がとても大丈夫なものではなかったと確信させる。
自分はこの人に何という不埒なことをしようとしていたのだろうか。
自分自身にも説明のつかない行動に、頭の中で浮かぶ限りの罵倒の言葉を並べた。
そして同時に、眼鏡を直して平静を装おうと努める。


「何でもありません。暗くて見えづらかったもので。」

「あ…、そっか。でも、見えないからって傷口を舐めることないだろ。」

「あれは、治療の一環です!傷なんて舐めておけば治りますから!」


自分の失態を掘り返され、つい語気を荒げてしまう。
だがそんな僕を見て、彼は嬉しそうに笑っていた。


「そうか。バニーちゃんはそんなに熱心に介抱してくれるくらい、おじさんのことが好きなんだな。」


 にかっと音が聞こえてきそうな程の無邪気な笑顔に、ぶつけようの無い感情が溢れる。


「ぼ…僕はバニーじゃありません、バーナビーですっ!」


 これが、僕に口に出来た精一杯の言葉だった。
そのまま勢いよく立ち上がり、扉へと向かう。


「あれ…。バニーちゃん、何か怒ってる?」

「怒ってなんかいません!グラスを取りに行くだけです!
今日はとことん付き合ってもらいますからっ!」


 廊下へ出ると、返事を待たずして扉が閉まる。
彼がどんな顔をしてどんな返事をしてくるかなんて、もうわかりきっていた。

その後はリビングに戻って包帯を巻き直し、二人で酒を飲み交わした。

椅子から降りて長い脚を投げ出した彼も、いつもに増して饒舌だった。
憧れのヒーローのこと、娘さんのこと。そして、彼自身のこと。
ジョークを織り交ぜて語る声は心地良かった。

間接照明に照らされた柔らかな顔貌を眺めながら、僕も初めて自分から過去の詳細を話した。
この時はなぜか、彼になら話してもいいと素直に思えた。
根拠はないが、憐れみでも同情でもない励ましの言葉が嬉しかった。

そして何本のボトルを空にしたか定かでなくなった頃、睡魔がやってきた。
頭は少し重かったが、久しぶりに穏やかな気分で眠りへと導かれる。


「おやすみ、バーナビー。大丈夫、お前なら必ず見つけられるさ。」








 消えゆく意識の中、髪を撫でる感触と耳に響いた言葉がいつまでも温かく感じられた。




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白桃花-別館- 兎虎BL同人小説 『9話の夜の記憶